自作について「Wade (2023)」

Wade for Piano and ensemble (2023)

Oboe
Bassoon
Alto Saxophone
Trumpet
Horn
Trombone
Contrabass
Solo Piano

2023.12.21 ムーブ町屋 ムーブホール
「作曲の会「Shining」 第16回作品展」にて初演

曲を書くまでの経緯

元々「Tide / Wade」というタイトルのアンサンブル曲をどこかのタイミングで書くつもりでいた。どちらも水に関係のある単語である点、語感・そのリズム感の良さ、そして空間的なものと時間的なものという対比からこの2つを選んだが、それだとテーマとしてかなり分量が多くなり、30分程度は無いと足りなくなると判断したので、今回はそのうちの”Wade”のみを取り出し、今回の演奏会のための曲として書いた。後々「Tide」という曲も書くことになるかもしれない。

曲についておおまかに

曲の構成の前にコンセプトについて詳しく説明をしておこうと思う。まず"Wade"とは、渡渉(川などを歩いて渡ること)、苦労して進むこと、それを通してやっと切り抜けることを意味する。川のみに限定されず、雪の中やぬかるみの中を歩いていくことも含んでいる。

今回着目した点は、先程も少し触れたが、渡渉というのに空間的(あるいは平面的であり、直線的)な動きが伴うことだ。動きが目に見えること、身体の運動を伴うこと、一人称視点であること、具象的で物語的であることが特徴として挙げられ、これらを一つの単語が全て持っているのはめずらしいことではないかと思う。

まず最初に、一人称として、一つの身体として、ピアノによって“歩み”が提示される。少し離れたところに川があり、それと平行に歩いている状態だ。川の様子を伺いながらも、まだ川の中には入っていかない。木々の間から川の様子が見えたりするが、これは伴奏楽器群が担当していくことになる。

川の向こう側に渡るため、ピアノは伴奏楽器群に近づくことで川の様子を観察しなければならない。近くで見ていると、遠くから見たよりも流れが速いことが分かった。少しの覚悟を決めて、川の中へ入っていく。最高音域から始まったピアノの歩みは、徐々に低くなっていくことにより、中音域で停滞する伴奏楽器群と重なることになる。

進むべき方向と垂直方向に流れる水の中で足を動かそうとする時、力をかける方向はまっすぐよりも少し上流寄りに斜め前方向である。また、水流から影響を受けているだけでなく、こちらもまた水流に影響を与えることになる。抵抗感と相互作用が音形により表現される。

渡渉を続けると段々と疲労が蓄積してくる。繰り返す動作と疲労というのは精神の高揚感を生む(ランナーズハイのような)。浅瀬を見つければそこで休むことにすることもあるだろう。そうした時、水と一体になったような感覚に陥ってくるものだ。その感覚に浸っている間、運動をしていないわけなので体温は低下していく。身体のもつリズムがゆるやかになり、あるいは飽和する。

ここから抜け出すには相当のエネルギーを要する。しかし、この曲においては感情の変化は考慮せず、あくまで身体的、視覚的な部分を描画するのみなので、運動がゆっくり重くなることを除けば前半と変化なく進むことになる。川を抜け出した後も、最初と同じように川と並行して歩いていくのみである。

自分にとってのこの曲について

私は水に関係する言葉をよく作品テーマとして扱う。今回もそのうちの一つであり、川の流れと言葉が関係する点はChannels(2022-2023)、水の動きを具体的に描写している点・音域の変化を距離の変化と同一視した点はAgitation(2023)と関連がある。

まず川の流れについてだが、これは4年ほど前からテーマとした曲を書き続けている。未完・未発表のものが半分以上を占めているが、私の中で大切なものとなっているテーマである(特にそれにまつわるエピソードがあるわけでもないので源流は分からない)。水をよく扱うのも、恐らく川の流れから来ているのではないかと思う。

次に音域と物理的な距離について。これはHomeomorphy(2021)から扱っている。この時は四次元空間における軸のひとつをパラメーターのひとつとして音高に置き換え、乱数によってそれを変化させた。線、つまり一次元として要素を扱うために一つの軸に着目することは、数値化・具体化されたものとして簡単に操作・理解できるようにすることである。今回については、出発地点⇔目標地点という軸に加えて、それと垂直な川の流れ(上流⇔下流)が存在する。本当にその2つの軸を垂直にするためには、音高と時間に置き換える、つまり持続に対し広い音域にまたがるクラスターを一発だけ入れるべきだが、そうもいかない。調整に苦労したところである。

これは反省点だが、現代音楽的、アカデミックな書法からもう少し離れても良かったと思う。独奏が静的だったのでそれとの対比ということで伴奏群を動的に書いたが、それでは必然性が足りない。有機的なのは水の表現として良かった。アカデミックであることによる無意識の優越感に対する自覚も足りなかった。

本作品が初演された作曲の会「Shining」の第16回作品展であるが、演奏会として成功だったかは置いておいて(むしろ置いておくべきだと思うが)、楽しくはやれた。当会はアマチュアリスムそのものみたいなものなのでそれが一番なのだが、企画・運営においてアマチュアリスムに意識的になる必要があった。自分がやる必要がなくても、やることで楽しみたいからやるというのは等身大で素敵な考え方だと思うが、20〜25歳が多いという(現状の)性質と噛み合っていないように感じた。アマチュアでいることは相当の勇気と大人らしさ(とお金)が必要なことだ。

自作について「Agitation (2023)」

Agitation for 6 Clarinets (2023)

2 Small clarinets in Eb
2 Clarinets in Bb
Alto clarinet
Bass clarinet

2023.9.22 ティアラこうとう 小ホール
「Symnapse 第2回演奏会〜クラリネットってすごい!〜」にて初演

曲を書くまでの経緯

元々は2台ピアノのためにこのテーマを用いるつもりだったが、やる気がなくなったのでしばらく放置していた。Symnapse第二回演奏会のための六重奏作品を考えている際、このテーマは復活することとなった。

曲についておおまかに

ピアノの最高音域と最低音域から始まり、徐々に音響的にも楽想的にも混ざり合っていくという当初のコンセプトを流用し、2つのグループ(Es Cl. 1st、Bb Cl. 2nd、Alto cl.からなる第一グループとEs Cl. 2nd、Bb Cl. 2nd、Bass cl.からなる第二グループ)において、また楽器ごとの3つのグループ(Es Cl.のグループ、Bb Cl.のグループ、Alto cl.とBass cl.のグループ)において、さらには6つの楽器一本一本において、それぞれの音高、音型の差異を持たせたうえでそれを近づけていくという方法を用いた。

流体的なふるまいを重要視しており、しばしば外部からの働きかけとして、固体的なものを描写することもある。外部からの働きかけというのは、例えばカップをかきまぜるスプーンなどのことで、これの登場をきっかけに音響が攪拌される。

最初に、第一グループと第二グループという対比が、楽器ごとの3つのグループ間の差異に移り変わっていく過程が描かれる。その中で混ぜ合わされている音型が分かりやすく示されるのは作品テーマのより分かりやすい提示である。
楽器ごとの分割に達したとき、すでにその結合は崩れかけている。管楽器はブレスの問題があるので、より平坦なサステインを得るためには、グループ内でも異なる動きをする必要がある。低音の保続が交代で確保されることとこの描写は相性がよかった。
次に第二グループで冒頭が軽く再現される。ソナタ形式でいうところの提示部のコデッタのようなものだろうか。古典的な形式というのはよくできていて、それは構造の美しさだけではなく、むしろ時間感覚や記憶に関わる部分においてバランスが取れていて優秀だと思う。

展開部にあたる、Agitationの言葉の通り切迫していく部分だが、これはVortex Temporum (Gérard Grisey, 1994-1996)の冒頭の引用による。時の渦、ということで、これは急速に、渦ができるほどの速度でかき混ぜられているということを表している。
最初に提示されたあと、少し前の部分のずれとうねりを伴いながら下行する箇所の上行版が並走していく。この引用の音型と半音階の上行を引き継ぎつつ、"Agitato"という標語とともに出現するのがとても長いaccelerandoである。テンポが2倍に達したときに元のテンポに戻り、そのまま加速を続けていくことでテンポが円運動のように終わりのない加速を続けるような錯覚を起こす。エッシャーのだまし絵のようだと言えば分かりやすいだろうか。

コーダは短めである。前半部分と後半部分のエッセンスを少しずつ汲み取りながら、回転運動の慣性力が減衰するかのように落ち着いていく、その過程で外部からの攪拌する力が再現される。これが最後のEs Cl.によるカップの中身をかき混ぜるときのスプーンの鳴らす音の描写につながる。最終的にEs Cl.の音だけが残る。

自分にとってのこの曲について(思想が強い)

まず、特殊奏法を減らそうという意識があった。特に今まで多用していたノイズを伴う特殊奏法だが、別に今後の作品において減らすというわけではない。ピアノ曲から出発したこの曲の内容において、それこそその使用がノイズになると感じたというだけだ。代わりに、所謂日本のアカデミックな場において多く用いられる類の、現代音楽のエクリチュールを用いた。結果として訓練としてはちょうど良かったし、楽譜のぱっと見がかなり美しくて満足もしている。

私は作家性というものがその人独自の書法にのみ現れるかといわれるとそうではないと思っている。もちろんそれらもあるだろうが、大切なのはもっと深くにあるもので、言葉にできる部分の理解だけでそれを作家性の理解とするのはナンセンスであると感じる(あとそもそも自分自身の作家性の確立というところにそれほど興味がない)。少し脱線したが、つまり何が言いたいかというと、スタイルはもっと幅広く様々なものを用いるべきということだ。曲に合った書法というものがいくつかあり、それはある程度自由に、能動的に選択されるべきだと思う。

矛盾するようであるが、どの書法で書くかというのはコンセプトが決まった時点でいくつか自動的に決まるものであるべきで、コンセプト単体でより多くの要素が決まっていくというのが良いコンセプトだと信じている。書法をどのようにするか決めるというのは、美術分野に例えるならば作品全体の一貫性をどのように確保するかという計画と、キャンバス選びやその地塗りの色選び、素材選びやメディアの選択のような表現手段ごとのはじめの部分を同時に行うようなことで、重要度が非常に高く、少しの変更によって出力される結果が大きく変わるものだ(代わりに音楽には時間の構成もあるが)。何をニュートラルとするかが書法選びであり、そこを誤ると全編通して違和感が発生してしまう。当たり前の話だが、この曲のコンセプトを舞曲で、となったら変だと思う。ただ、選択肢は一つではないとも思っていて、徹底さえしていればこの曲も特殊奏法を多用した独特の音響を用いて描くこともできただろう。複調を用いてある程度調性的に差異を描くこともできたかもしれない。今回は日本のアカデミズムの中心に近いものを用いたというだけで、適切なものでさえあれば、手段は自由に選ぶべきだと思う。作品や作家にとって何がニュートラルとされているかを考えず、スタイルや書法を自分のものさしに当てはめて「時代に即していない」などと批判している人をよく見かけるが、今時の考えに則るならば、彼らこそスタイルの選択という多様性を蔑ろにしていて批判されるべきものだろう。