自作について「Agitation (2023)」

Agitation for 6 Clarinets (2023)

2 Small clarinets in Eb
2 Clarinets in Bb
Alto clarinet
Bass clarinet

2023.9.22 ティアラこうとう 小ホール
「Symnapse 第2回演奏会〜クラリネットってすごい!〜」にて初演

曲を書くまでの経緯

元々は2台ピアノのためにこのテーマを用いるつもりだったが、やる気がなくなったのでしばらく放置していた。Symnapse第二回演奏会のための六重奏作品を考えている際、このテーマは復活することとなった。

曲についておおまかに

ピアノの最高音域と最低音域から始まり、徐々に音響的にも楽想的にも混ざり合っていくという当初のコンセプトを流用し、2つのグループ(Es Cl. 1st、Bb Cl. 2nd、Alto cl.からなる第一グループとEs Cl. 2nd、Bb Cl. 2nd、Bass cl.からなる第二グループ)において、また楽器ごとの3つのグループ(Es Cl.のグループ、Bb Cl.のグループ、Alto cl.とBass cl.のグループ)において、さらには6つの楽器一本一本において、それぞれの音高、音型の差異を持たせたうえでそれを近づけていくという方法を用いた。

流体的なふるまいを重要視しており、しばしば外部からの働きかけとして、固体的なものを描写することもある。外部からの働きかけというのは、例えばカップをかきまぜるスプーンなどのことで、これの登場をきっかけに音響が攪拌される。

最初に、第一グループと第二グループという対比が、楽器ごとの3つのグループ間の差異に移り変わっていく過程が描かれる。その中で混ぜ合わされている音型が分かりやすく示されるのは作品テーマのより分かりやすい提示である。
楽器ごとの分割に達したとき、すでにその結合は崩れかけている。管楽器はブレスの問題があるので、より平坦なサステインを得るためには、グループ内でも異なる動きをする必要がある。低音の保続が交代で確保されることとこの描写は相性がよかった。
次に第二グループで冒頭が軽く再現される。ソナタ形式でいうところの提示部のコデッタのようなものだろうか。古典的な形式というのはよくできていて、それは構造の美しさだけではなく、むしろ時間感覚や記憶に関わる部分においてバランスが取れていて優秀だと思う。

展開部にあたる、Agitationの言葉の通り切迫していく部分だが、これはVortex Temporum (Gérard Grisey, 1994-1996)の冒頭の引用による。時の渦、ということで、これは急速に、渦ができるほどの速度でかき混ぜられているということを表している。
最初に提示されたあと、少し前の部分のずれとうねりを伴いながら下行する箇所の上行版が並走していく。この引用の音型と半音階の上行を引き継ぎつつ、"Agitato"という標語とともに出現するのがとても長いaccelerandoである。テンポが2倍に達したときに元のテンポに戻り、そのまま加速を続けていくことでテンポが円運動のように終わりのない加速を続けるような錯覚を起こす。エッシャーのだまし絵のようだと言えば分かりやすいだろうか。

コーダは短めである。前半部分と後半部分のエッセンスを少しずつ汲み取りながら、回転運動の慣性力が減衰するかのように落ち着いていく、その過程で外部からの攪拌する力が再現される。これが最後のEs Cl.によるカップの中身をかき混ぜるときのスプーンの鳴らす音の描写につながる。最終的にEs Cl.の音だけが残る。

自分にとってのこの曲について(思想が強い)

まず、特殊奏法を減らそうという意識があった。特に今まで多用していたノイズを伴う特殊奏法だが、別に今後の作品において減らすというわけではない。ピアノ曲から出発したこの曲の内容において、それこそその使用がノイズになると感じたというだけだ。代わりに、所謂日本のアカデミックな場において多く用いられる類の、現代音楽のエクリチュールを用いた。結果として訓練としてはちょうど良かったし、楽譜のぱっと見がかなり美しくて満足もしている。

私は作家性というものがその人独自の書法にのみ現れるかといわれるとそうではないと思っている。もちろんそれらもあるだろうが、大切なのはもっと深くにあるもので、言葉にできる部分の理解だけでそれを作家性の理解とするのはナンセンスであると感じる(あとそもそも自分自身の作家性の確立というところにそれほど興味がない)。少し脱線したが、つまり何が言いたいかというと、スタイルはもっと幅広く様々なものを用いるべきということだ。曲に合った書法というものがいくつかあり、それはある程度自由に、能動的に選択されるべきだと思う。

矛盾するようであるが、どの書法で書くかというのはコンセプトが決まった時点でいくつか自動的に決まるものであるべきで、コンセプト単体でより多くの要素が決まっていくというのが良いコンセプトだと信じている。書法をどのようにするか決めるというのは、美術分野に例えるならば作品全体の一貫性をどのように確保するかという計画と、キャンバス選びやその地塗りの色選び、素材選びやメディアの選択のような表現手段ごとのはじめの部分を同時に行うようなことで、重要度が非常に高く、少しの変更によって出力される結果が大きく変わるものだ(代わりに音楽には時間の構成もあるが)。何をニュートラルとするかが書法選びであり、そこを誤ると全編通して違和感が発生してしまう。当たり前の話だが、この曲のコンセプトを舞曲で、となったら変だと思う。ただ、選択肢は一つではないとも思っていて、徹底さえしていればこの曲も特殊奏法を多用した独特の音響を用いて描くこともできただろう。複調を用いてある程度調性的に差異を描くこともできたかもしれない。今回は日本のアカデミズムの中心に近いものを用いたというだけで、適切なものでさえあれば、手段は自由に選ぶべきだと思う。作品や作家にとって何がニュートラルとされているかを考えず、スタイルや書法を自分のものさしに当てはめて「時代に即していない」などと批判している人をよく見かけるが、今時の考えに則るならば、彼らこそスタイルの選択という多様性を蔑ろにしていて批判されるべきものだろう。